【思考実験を支那古典風に】国家の独立・国権国益の増進はどのような国民によって成されるか

夫子曰く「奴隷とその主人と、どちらが自由で自立しているかね?」
弟子曰く「主人です。」
夫子曰く「なぜかね?」
弟子曰く「主人が命を下し、奴隷がそれに従うからです。」
夫子曰く「うむ。主人が意思決定をし、主人が主体性を持って行動(命を下す)
     するのだから、そう言えるね。」

夫子曰く「ここで、奴隷からなる国家を考えてみよう。どのような国になるかね?」
弟子曰く「奴隷のように振る舞う国になります、夫子。」
夫子曰く「では、主人からなる国家はどのようになるか?」
弟子曰く「自立した国になります。」
夫子曰く「奴隷国と主人国とが、相争ったとき、どうなるだろうか?」
弟子曰く「夫子よ、奴隷国が負けます…主人に従うのが奴隷ですから。」


夫子曰く「では、主人と奴隷、どちらが権利を主張するだろうか?」
弟子曰く「主人です。」
    「奴隷はその性質から、もっぱら義務に服し、またそれに勤しむことを
     喜びとしますので。」
夫子曰く「では、義務に服してばかりの国民と、権利を主張する国民、どちらが
     国権国益を大事にするかね?」
弟子曰く「明らかに、権利を主張する国民です、夫子。」


夫子曰く「奴隷国の指導者には、どのような資質が必要とされるだろうか?」
弟子曰く「専制独裁です。かの国の国民は、主体性がなく自分たちで決められな
     いので強いリーダーシップが必要とされます。」
夫子曰く「では逆に、主人国の指導者には?」
弟子曰く「夫子よ、主人国の指導者は、国民の協調を促し自主性を妨げさえしな
     ければ、国民の資質は最大限に発揮されることでしょう。」



つまり、独裁政治を防ぐには、国民が奴隷でなく主人である必要がある。
それによって、国権は保たれ国益は最大限に増進する。


ただでさえ責任感の強い人々を、義務によって駆動するのは
論理的に間違っているだけでなく、
個人を追い詰めて死に至らしめ、
全体としてみても利益を逸失する。


ただでさえ義務感が強く権利が過小な国民に、過大な義務の履行を迫り、
個人が「がんばる」ことを強要するのは、
国家の甘えであり、
組織の欺瞞であり、
その実として、盗人を利するのみ。


義務を押し付けることではなく、トータルで見た最適な権利のバランス設計(現状においては、個人における権利の増大)によって、社会は発展し国家は繁栄するのだ。


契約があっても履行されず、またその契約も公正でなくその不公正な債権者も淘汰されないような社会システムは、ハックしてリファクタリングすればよい。


北一輝の述べたような、徹底した近代化と権利教育こそが、必要なことだ。